冷戦真っただ中の1968年1月、北朝鮮の特殊部隊31名は当時の朴正煕・韓国大統領を暗殺するため、ひそかに南北休戦ラインを越えてソウルに侵入。出くわした検問の警官を銃撃戦の末に殺害し、青瓦台と呼ばれる大統領官邸への突入を試みた――。■中国国家主席官邸より豪壮な韓国大統領官邸10年前、私が32歳の時、韓国大統領官邸の青瓦台前でのことです。私はソウルに観光に訪れており、青瓦台を見ようと思い、歩いて向かいました。青瓦台は大通りから離れたところにあり、正門付近には歩行人などいません。正門から、青瓦の巨大建築が遠く正面に見えました。もちろん正門は固く閉ざされていましたが、少しでも青瓦台に近づこうと、正門の手前まで進みました。すると、両脇から突如、銃を持った警備兵が私を目掛けて飛び出して来て、その場でねじ伏せられました。私は正門に近づいただけでしたが、想像を超える厳重な警備のため、取り押さえられたのです。ポケットのものを全部出され検査をされて、何も危険物を持っていないということがわかると、その場で放され、立ち去るように指示されました。青瓦台は一部のエリアが公開されていますが、そのほとんどのエリアは秘密のベールに包まれています。地図では青瓦台のエリアは空白になっています。その建築の豪壮さは世界一のレベルとされます。(1991年に盧泰愚政権時代に新築)北京の国家主席官邸は、紫禁城(故宮)の西隣の「中南海」と呼ばれるエリアにあります。中国政界では、「中南海入りする」という言い方がありますが、これは入閣し、政権の中枢に加わるという意味です。「中南海」も高い塀に囲まれ、秘密のベールに包まれた場所です。北側の景山の山頂から「中南海」の中が見えますが、国家主席官邸は豪壮という感じではありません。青瓦台の威容とは比べものになりません。■「朴正煕の首を取りにきた」この青瓦台が襲撃されようとした事件がありました。1968年1月のことです。北朝鮮の特殊部隊31名は当時の大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)を暗殺するため、南北休戦ラインを越えました。彼らは青瓦台付近までやって来たところで、検問に引っ掛かりました。特殊部隊員はその場で機関銃を乱射して、警官を殺し、青瓦台へ突入しようとします。特殊部隊員は人気のない山中を通り、南下してソウルに入っていました。しかし、南下中、彼らは住民と鉢合わせしています。不審に思った住民が通報したため、政府は北朝鮮工作員が侵入したのではないかと疑い、青瓦台は万一に備え、警備を強化していました。そのため、特殊部隊員の青瓦台突入は衛兵によって阻止され、彼らは北岳山(プガクサン)に逃走します。北岳山は青瓦台のすぐ後ろに聳(そび)える山です。この山で、特殊部隊員は韓国軍と激しい銃撃戦を展開、31人のうち、30人は自爆するか、または射殺されました(数名は北へ逃亡したとの説あり)。そして、1人が生け捕りにされました。この生き残った1人が「朴正煕の首を取りにきた」と証言したのです。韓国の防備が手薄であったため、このような襲撃を招いたという見方がありますが、そうではありません。どのように防備を固めたとしても、特殊部隊の侵入を防ぐことはできません。陸続きで休戦ラインのすぐ近くにあるソウルに対し、北朝鮮が特殊部隊員を送り込むことは、その気になりさえすれば、いつでも可能なことなのです。■アメリカは静観、韓国は「報復部隊」を編成朴正熙はこの襲撃未遂事件に激怒します。朴はすぐに北朝鮮へ報復攻撃をするつもりであるとアメリカに伝えます。しかし、アメリカがこれを許しませんでした。アメリカは1965年以降、ベトナム戦争を本格化させていました。事件が起こった1968年の当時、アメリカは朝鮮半島で有事を抱える余裕はありませんでした。朴は結局、報復攻撃を諦めました。しかし、朴は秘密裏に金日成の暗殺計画を進めます。自分を暗殺しようとした北朝鮮特殊部隊と同じ31人の部隊を編成し、「やられたらやり返せ」という考えのもと、金日成暗殺部隊を育成します。この部隊は1968年4月に編成されたため、「684部隊」と呼ばれます。この「684部隊」が映画『シルミド』(2003年)の題材となりました。シルミドは漢字で「実尾島」と書きます。仁川(インチョン)沖の実尾島で、「684部隊」は過酷な訓練を受けます。しかし、1970年、南北融和が進み、金日成暗殺計画は中止されます。映画『シルミド』では、秘密部隊の「684部隊」の存在を消すために、隊員を殺す計画が立てられ、それに反発した隊員が反乱を起こすという筋書きになっています。これは事実と異なります。「684部隊」は決死隊であったため、隊員たちは高額の給与で雇われていました。金日成暗殺計画が中止されるとともに給与の支払いも中止され、これに怒った隊員が理性を失って、ソウル市内で銃撃戦を演じたというのが実態です。冷戦時代の当時、暗殺部隊をはじめとする特殊部隊はどこの国でも普通にあり、あえてその存在を消して隠す必要などありません。この銃撃戦で、「684部隊」の4名が生き残りましたが、いずれも処刑されました。■大統領になって人が変わった「実直な実務家」朴正熙はいったいどんな人物だったのでしょうか。彼は1917年、貧しい家に生まれ、日本の陸軍士官学校を留学生首席で卒業します。卒業後、満州方面の日本陸軍に所属していました。日本名は高木正雄です。朴は若い時から、真面目な性格で信用があり、出世頭でしたが、目立つ存在ではありませんでした。社交家でもなく、親分肌でもなく、派閥を形成するようなタイプでもありません。勤勉な実務家でした。朴は1961年の「5・16軍事クーデター」で実権を握ります。このクーデターの実際の立役者は金鍾泌(キム・ジョンピル)でした。金鍾泌は朴よりも9歳年下の切れ者で、陸軍の情報局に所属していた諜報(ちょうほう)のプロでした。クーデター当時35歳だった金鍾泌は、軍や政権の情報を一手に握っていました。李承晩時代からの腐敗政治で軍の首脳部は腐り切っており、軍のガバナンスもほとんど機能していませんでした。国民から見放されていた政権や軍首脳部は、ほんの一押しで倒れると金鍾泌は読んでいました。金鍾泌ら情報局にとって、クーデターの頭目になる人物は誰でも良かったのですが、実直で信頼できる人物がふさわしいということで、朴正熙に白羽の矢が立てられたのです。朴正熙は金鍾泌が用意したみこしに乗ったに過ぎません。ところが、実直とされた朴は大統領になると、人が変わりました。権力に取りつかれ、自分に従順なイエスマンを侍(はべ)らせ、腐敗政治を横行させました。立役者の金鍾泌も遠ざけるようになり、揚げ句には、金鍾泌が大統領の座を狙っていると疑い、彼の自宅を検察に強制捜査させたこともありました。朴は非常に猜疑心(さいぎしん)が強い人間だったのです。また、寡黙で温厚とされた反面、かんしゃく持ちで、怒りに火が付くと手に負えないタイプの人間でした。「清廉であった」という評価もありますが、女性問題が絶えず、妻の陸英修とたびたび言い争うような一面もあったようです。朴正熙はひと度、大統領になると、権力に固執し、終身大統領に居座ろうと画策しました。また、自分の座を脅かす者を徹底して排除しました。■権力への執着が金大中事件の伏線に朴の側近に李厚洛(イ・フラク)という人物がいました。李厚洛は金鍾泌と同じく、諜報畑を歩んで来た人材で、KCIA中央情報部の部長に登り詰めました。李厚洛は北朝鮮との融和を進め、1971年には、平壌を訪問し、南北共同声明を発表しました。李厚洛の韓国国内での評価が急速に高まり、朴はこれを快く思っていませんでした。そんなある日、首都警備司令官の尹必○(ユン・ピリョン、○=かねへんに庸、以下同)が酒の席で、李厚洛を持ち上げて、「あなたこそ、大統領の後継者だ」と発言しました。この話が漏れ伝わり、朴の耳にも届きます。朴は怒り狂います。朴は68年の青瓦台襲撃未遂事件後、大統領の座が脅かされることに過敏になっていました。尹必○と李厚洛は拘束され、取り調べられました。尹必○は解任されましたが、李厚洛は朴の側近の朴鐘圭(パク・ジョンギュ)警護室長の取りなしで、赦免されました。李厚洛は赦免後、青瓦台の警護室を訪れ、朴鐘圭に「閣下(朴大統領のこと)の怒りをとくにはどうしたらよいだろうか?」と問いました。この時、朴鐘圭は「閣下は金大中(キム・デジュン)を目障りに思っておられる」と答えます。これを聞いた李厚洛は金大中を拉致・暗殺する計画を実行しようと決心します。次回はこの金大中拉致事件について、詳しく見ていきます。———-宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。
———-(著作家 宇山 卓栄 写真=時事通信フォト)

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